かなざわの人物 妙性房審海
ミョウショウボウシンカイ 1229-1304 鎌倉時代中期の僧侶。
文永4年(1267)8月、下野薬師寺(栃木県)の審海は、経典を借用するため鎌倉の多宝寺(のち廃寺)を訪れました。その時、極楽寺の忍性の強い推薦によって称名寺初代長老(住持)に就任した人物です。 北条実時は当初叡尊に長老の招請を依頼しましたが、叡尊は高弟忍性にそれを任せて奈良の西大寺に帰りました。審海は再三辞退したのですが、半ば強引な形で迎えられ、極楽寺の人脈の僧と共に入寺することになりました。実時の念仏堂が西大寺流律宗寺院「称名寺」となりました。
鎌倉幕府は律宗教団を保護し、教団は道路・港湾の修築や橋の架橋、病人や困窮者の救済など広く社会事業を展開していました。審海は、京都醍醐寺の頼賢や薬師寺の慈猛に師事し、三村寺(つくば市)にいた忍性とも交友がありました。天台・真言の教学を深く学ぶと共に戒律も尊んだ求法僧学僧でした。
審海はプライドも高く鎌倉の政界で活動しようとはしませんでした。この辺は金沢北条氏の期待に反したようです。県立金沢文庫に一山一寧の賛がある椅子に坐した「審海上人像」があります。一度も薬師寺に帰ることもなく嘉元2年6月入滅しました。
(井上泰利)