かなざわの人物 万里集九
バンリシュウク(シュウキュウ) 1428-1502? 室町時代の元禅僧・漢詩人。
文明18年(1486)7月26日相模糟屋(伊勢原市)にて太田道灌が横死(謀殺)され、葬儀後 10月23日に万里は、次男百里等京を携えて江戸城を出て鎌倉に向かいました。24日長谷の大仏では草履をぬいで大仏の体内に入っています。お堂はなく荒廃の様子を記しています。
長谷観音・由比ヶ浜•寿福寺を巡り鶴岡八幡宮を詣でて、夕方親交があった玉隠英璵がいる明月院に着き宿泊しました。25日には円覚寺、26日には江の島を見物し、27日には六浦路の朝比奈切通を抜けて瀬戸・金沢を訪れています。
称名寺を訪れた際に、西湖梅は未だ咲いておらず落胆していますが、季節外れであったと思います。漢詩文集『梅花無尽蔵』に江戸城香月亭の下にある西湖梅は、金沢から取り寄せたものとあります。能見堂跡にも行き、六浦の景色に非常に感激しています。29日まで鎌倉に滞在して江戸に帰りました。
万里は京都・相国寺の僧でしたが、1471-78年ころ還俗して、当時の名は江左漆桶万里(ゴウサシツツウバンリ)です。文明7年(1475)頃応仁の乱を避けて、美濃鵜沼(各務原市)の承国寺に奇遇しました。同13年には雪舟等楊の訪問があり、同17年(1485)道灌の招きで10月に江戸へ行き、長享3年(1489)5月鵜沼に帰着しました。
(井上泰利)