▶歌川広重が描いた『金沢八景』のご紹介
八景とは、ある地域における八つの優れた風景を言い、由来は古代中国に瀟湘八景がそのモデルとされています。漁村夕照 [ぎょそん せきしょう]、煙寺晩鐘 [えんじ ばんしょう]、江天暮雪 [こうてん ぼせつ]、洞庭秋月 [どうてい しゅうげつ]、平沙落雁 [へいさ らくがん]、瀟湘夜雨 [しょうしょう やう]、山市晴嵐 [さんし せいらん] 、遠浦帰帆 [えんぽ きはん]から構成され、夕照、晩鐘、暮雪、秋月、落雁、夜雨、晴嵐、帰帆という二文字で表現される情景が八景の中核部分となっています。
「金沢八景」が成立したのは近世初期の事です。変化にとんだ海岸線と海上に点在する岩や島の景観により、この地は中世のころから景勝地と知られ、その美しさは人々を魅了していました。鎌倉幕府の将軍頼経は六浦を遊覧し、14世紀初頭には兼好法師も一時居を構えていました。また、鎌倉後期以降、五山の禅僧も度々訪れています。金沢が景勝地とされたのは、風光明媚であることに加えて、鎌倉に近接していたことも大きな理由といえます。
そして、金沢八景の名称や存在が固定されたのは、後に徳川光圀によって水戸に招聘された明の僧・東皐心越(とうこうしんえつ)が能見堂より金沢の風景を眺望し、故郷の杭州西湖と金沢の地を重ねた八つの詩を詠んだことによります。
「小泉夜雨(こずみのやう)」、「称名晩鐘(しょうみょうのばんしょう)」、「乙艫帰帆(おっとものきはん)」、「洲崎晴嵐(すさきのせいらん)」、「瀬戸秋月(せとのしゅうげつ)」、「平潟落雁(ひらかたのらくがん)」「野島夕照(のじまのせきしょう)」、「内川暮雪(うちかわのぼせつ)」-これらは今日までに至る、金沢八景を象徴する八つの景観です。
さて、この「金沢八景」を題材に歌川広重が8つの大判錦絵の制作しており、後に歌川広重の代表的な作品となっています(各説明文は金沢八景案内版より)。
1.小泉夜雨(こずみのやう)
雨の絵の名作といわれる小泉夜雨」の舞台となった小泉は、通説では釜利谷に入口、手小神社付近と言われていますが、八景の中でもとりわけ変貌が激しい所です。広重がこの絵を描いたころは、泥亀新田の開発も進み、瀬戸橋で入り海は仕切られていました。あたりの風景はすっかり変わりましたが、手子神社は今なお残り、昔の佇まいをみせています。
2.称名晩鐘(しょうみょうのばんしょう)
瀬戸の入海から称名寺の方角を描いたものです。須崎から称名寺にかけては、野島につながる砂州の延長部分にあたり、平地であったために人家も多く、龍華寺、安立寺などの古刹も建っていました。古くは寺前八幡の近くまで入り海がとどき、八幡宮の周囲も鬱蒼とした森林であったといいます。称名寺は、金沢文庫の創設者である鎌倉時代の武将・北条実時が建立したお寺で、「称名晩鐘」とうたわれたその鐘は、正安三年に北条顕時が改鋳したものです。現在では、重要文化財に指定されています。
3.乙艫帰帆(おっとものきはん)
野島の裏側、乙艫海岸(現在の海の公園あたり)から小柴の岬を望み帆懸船が帰ってくる光景を描いたものです。「おつとも」とは、金沢いったいの海岸線が船の鞆の形をしていたのにちなんで名付られました。平潟湾は時代が下るにつれて土砂の堆積が進み、湾の奥まで大型船が入ることができなくなりましたが、野島や乙艫の付近は、なお風を待つ待避所として利用されていました。当時の東京湾は、金沢の良港を過ぎると、神奈川の港まで、小柴・本牧と断崖が海に落ち込む荒海だったのです。
4.洲崎晴嵐(すさきのせいらん)
瀬戸橋を東に渡り、金沢から野島に続く砂州がやや北西へ突き出たあたりを洲崎といいます。洲崎明神や龍華寺など、古くからの社寺が点在するところです。広重は手前の筏師から遠くの山並みまでを詳細に描いています。画面中央にならぶ小屋は塩焼き小屋です。鎌倉時代からこのあたりでは海水を煮て塩を作る製塩業が盛んで、明治時代まで行われていました。現在でもその名残として「塩場」の地名が残っています。
5.瀬戸秋月(せとのしゅうげつ)
瀬戸橋の上に浮かぶ月を眺めた夜景です。手前右手に描かれる「東屋」という料亭の裏から、照手の松小島と瀬戸橋を見越して野島を望む構図となって折り、平潟湾や野島は、はるか遠く、墨絵のように描かれています。もとは、八景見物の名所であった能見堂の山頂から、瀬戸方面に向かえって見る名目をさして言ったものですが、風光の変化から瀬戸橋付近で見上げた月を指すようになりました。
6.平潟落雁(ひらかたのらくがん)
野島の内側にあたる平潟湾は一面の浅瀬で、泥亀新田の開発と同じころに塩田として開発されたところです。画面には、落雁の群れとともに、潮干狩りをする人々が描かれています。平潟周辺の漁民が余業として行っていたのでしょう。この平潟湾は、内陸の安全な浅瀬として、昭和30年代まで潮干狩りや海水浴の名所だったのです。
7.野島夕照(のじまのせきしょう)
野島はもとは陸続きの島で、百軒の漁師があったと伝えられています。この漁村の夕暮れは美しく、野島の山頂からは遠く房総の地も望まれました。画面は、左から野島・夏島・烏帽子島を描いています。野島と夏島は、今も埋め立て地の中の小山としてかろうじて姿をとどめていますが、烏帽子島はすでにとり崩されてしまいました。
8.内川暮雪(うちかわのぼせつ)
雪にたたずむ民家と塩焼小屋、そして蓑がさを身につけ雪の中を歩く人々を描く「内川暮れ雪」は、金沢八景の中でも最もその描かれた場所の特定に異説があるものです。釜利谷に入口、手子神社のあたりを指したり、また金龍院の付近をあてはまることも行われた様ですが、この絵は、おそらく洲崎や野島あたりの塩田から対岸の瀬ケ崎を望んだ風景で、遠景の中央は鷹取山から神武寺に続く連山だと思われます。