『金沢百景』(角田家所蔵)のご紹介

金沢の自然に育まれ、郷土の学校で教育に当たった角田武夫(1884年~1945年)は、時の流れと共に金沢の名勝地が変わり行き、文人墨客の来遊した金沢八景も昔の名のみになり行くのを嘆かわしく思い、せめて今の金沢の風物を書き留めようと「金澤百景」を昭和8年~16年に渡り描かれました。時あたかも六浦壮村と金沢町が横浜の一部となり11町に分かれた頃で、角田氏の描いた金澤百景を通してこの80年間の金沢の変化を知ることが出来ます。古くから住んでいる人々には思い出の確認を、新しい人々には古き良き時代の金沢を感じていただけることと思います。

掲載している図版の出典は、角田家所蔵『金沢百景』(写真提供:神奈川県立金沢文庫)より。

説明文は金沢観光協会発行「金澤百景抄」(角田武夫画 横浜市金沢区福祉部市民課編)1978年発行より引用。

1 町屋通りより大銀杏を見る。

 旧16号線町屋の街並みと、寺前八幡社の大銀杏。この大銀杏は、現在の鳥居の前にあったが、昭和24年8月31日キテイ台風で被災し、倒れてしまった。長らく金沢の象徴的な存在で、道を尋ねられた時など起点ともなり、人々に親しまれていたという。

2 泥亀新田釣堀

 宮川河口の姫小島より金中橋までは、大橋新太郎氏経営の専用漁場で、鮒や鯉を求めて京浜地区から釣客が来遊して、なかなかのにぎわいであった。この釣堀から泥亀新田にかけての広い地域は、野鳥の天国であったという。

3 谷津浅間社から泥亀新田、室の木を眺望する

 泥亀新田の様子がよくわかる。右側の宮川が平潟湾へ流れ込むとところに瀬戸橋が見え、金沢文庫駅から洲崎の家並みまでは、全く家が見られない。前方に大きく横たわる岬が室の木・瀬ヶ崎で、ここにあった源範頼ゆかりの太寧寺は、軍の命令により、昭和18年現在の片吹に強制移転させられた。切り崩された跡地付近に、現在関東学院女子短大が建っている。

4 金澤山より野島を眺望する

 金澤山は頂上に八角堂の建っている称名寺の裏山。まだ平潟湾と乙艫海岸を結ぶ運河は掘られていず、野島は海岸線つづきに望見されている。乙艫の海岸沿いにはこの地の自然を愛する人の家や、海水浴をあてにした民家がわずかに点在するのみであり、寺前、町屋、洲崎、平潟は田園風景が豊かであった。真中に見える田んぼのあたりが現在の文庫小学校。

5 称名寺赤門

 古跡、称名寺・金沢文庫は昭和10年当時と比べて、さほどの変化は見られない。その中ではこの赤門から仁王門までの参道の変化が大きい。現在赤門は瓦ぶきとなっているし、この絵に見えている両側の垣根は、軒を接して立ち並ぶ民家に変わっている。

6 金澤山より谷津、釜利谷を見る

現在と比較すると、釜利谷の山すそを這い上がるように奥まで宅造地が認められるが、六国峠の登り口から能見堂にかけての森や富士山はそのままで、かろうじて概景をとどめている。当時の電車は乗客も少なく、ラッシュアワーだけニ輌で走り、その他の時間帯は一輌であった。電車の右上の部落は谷津で、中央に遠望される部落が手子神社の森を左にした釜利谷宿の部落である。

7 町屋原より鷹取山を望む

現在の金沢小学校付近からの風景。金沢名産である玉葱のとれた畑の先に見えるのが、洲崎の部落で、野島山と昇天山が向かいあっている。かすかに見える山波が鷹取山で、その手前のやや低い山波が瀬ヶ崎、三双など横須賀との境をなす山々である。

8 柴

 稲むらの群れと小舟が並んでいるのがなつかしい。漁業のかたわらに農業も営んでいた象徴である。これらの小舟は海苔とり舟と思われる。中央奥の方で海苔を乾燥させている風情は、柴ならではのものである。

9 権限山からの眺望

 権限山は円通寺(金沢八景駅裏の藁ぶき屋根の家)の裏山。左側に瀬戸橋が白っぽく見え、手前から琵琶島弁天、洲崎の家並、水田や畑が乙艫の松林までつづき、遠く東京湾の水平線まで海が望まれる。

10 山王山より内川を望む

山王山は上行寺の裏山と言われているが、この絵は16号線をへだてた反対側の山から俯瞰した感じである。右側に16号線が見えている。これは昭和元年六浦橋と内川橋が架けられたのに伴う新道である。中央の埋め立て地が内川で、まだ何も建てられていない。その先の部落は瀬ヶ崎である。また、画面に描かれている海は平潟湾の一部だが、今は埋め立てられて柳町になっている。

11 金澤温泉、谷津浅間社

 金沢温泉は金沢文庫駅裏の川をへだてた白井崎のふもと、金沢七井の一つ、白井のすぐ近くにあった。昭和2年までは白井館、以後金沢温泉と改めた。湘南電鉄が出来てからは、金沢文庫どまりの終車で軍人がよく訪れた。この鉱泉は切りきずにはよくきいた。当時ここから君ヶ崎にかけては一軒の家もなかった。太平洋戦争が激しくなり物資が不足してくると料亭は出来なくなり、旅館だけをつづけた。(金沢温泉王の大村氏談)

12 小泉より見た大川堤の桜

 釜利谷の田園地帯の真中を宮川が流れ、河畔を色どる桜並木は、季節になると、紅白の幕を張りめぐらした茶店が出て、たいそうにぎわったという。うしろに見えている山は称名寺裏山の金澤山。

13 大道

 この絵の右側の山すそを流れる侍従川から引いた灌漑用水が、清流となって画面の水田に満ち、家は山側に少しあっただけだった。春ともなれば一面のレンゲ畑となり、水車がまわり、桃畑に花が咲き、牛がゆうゆうと草を食み、さながら桃源郷のようであったという。中央の大きな屋根は宝樹院。

14 天長節に泥牛庵裏山より瀬戸を見る 

泥牛庵は16号線を横須賀方面に向かって、金沢八経駅をすぎた右側にある、階段を登ったところの寺院。明治の一時期、この裏山に八景一覧の「大観亭」があった。中央は瀬戸神社の森。天長節(天皇誕生日)で通りに国旗が並んでいる。端午の節句(こどもの日)が近く、左側に鯉のぼりも見える。右側中段の二階家が改築前の「千代本」で、瀬戸の街並みや16号線の様子がよく判る。当時個人所有の自動車は数える程しかなく、ハイヤーがたまに走っていたという。

15 金沢八景駅前

いかにもローカル線の小駅といった感じで、鄙びた駅前風景である。秋分の日(秋季皇霊祭)で戸毎に国旗が出ている。

昭和5年開通した湘南電鉄は、折からの不況と利用者の不足で営業不振であったが、昭和8年品川-浦賀間の直通運転が始まり、軍備の拡張で沿線の軍需工業がさかんになると、昭和11年ようやく、年3分の配当を行なうようになったという(「最近10年の歩み」京浜急行刊より。)当時金沢区内には「湘南富岡」「金沢文庫」「金沢八景」の三駅があった。因に、谷津坂駅は、S.19.5.10.六浦駅はS.24.3.1.にでき、湘南富岡駅はS.38.11.1..現在の京浜富岡駅と改称になった。

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